第一章 コンピュータシミュレーションによるまちづくり教育


第1節 まちづくり教育

(1)教育の変遷

 中世以来、教育は個人を対象として、個を伸ばすことを目指して行われるものであった。それが19世紀後半に近代学校教育の整備によって、経済性や効率性の視点から学年別に編成した学級を単位とする一斉授業が教授の一般形態となった。ところが一斉授業だけで教育を行うと、個人差により学力の違いが大きく現れるようになり学級による一斉授業を改革するための試みが種々行われた1)。日本の場合は欧米に比べて1学級の編成人数が多く、学級を単位とする授業が徹底して行われているため、個性に応じた教育、個を活かす教育は、学校教育において大きな課題となっている。現在は学力に応じてクラス編成をするなどの試みがなされているが、近年の傾向を見ても必ずしもそれが効果的な手段と成りえてはいないといえる。従来の全体を対象としてきた教育の欠点が現代になって浮き彫りになってきたとも言える。
 
 また、来るべき少子高齢化社会と地域情報化社会は生涯学習の必要性をこれまで以上に高め、近年では従来のような一部だけの参加に留まらず、学校教育との連結性を持たせる活動が増えている。この原因は余暇の充足、教育の浸透、戦後最低といわれる不況、地球環境への関心、情報技術の進歩などといった点が上げられるのだが、なによりも公共事業の見直し、政治への不信、地方分権を含む町村合併の動きなどを含め、社会が自分の生活のために自分の住む地域に目を向けるようになったことが大きな要因としてあげられる。この動きは多くの市民を地域・まちづくりに引き込む動きとなり、市民の参加がこれから必要とされる地域社会が作られることが予測され、その為に地域教育・まちづくり教育が必要とされる。また、今までのような終わりのない経済発展を突き進めた結果によって引き起こされた環境破壊と少年教育などの問題も含めて、大学を含めた教育自体のあり方を改めて地域社会全体で考え、新たな地域を形成する必要があり、その為の準備をする大学人や企業人などの人材育成にも力を注ぐべきである。その為に我々は古代のように、歴史的経過を踏まえての開発とその教育をもう一度考え直さなければならない。


(2)まちづくり教育とその必要性

 今更語る必要もないかもしれないが、実際なぜ今、地域教育やまちづくり教育が必要とされているのだろか。

 前述したように元々教育とは個人を対象とした教育が主であったのが、学校制度の導入とその依存によりそれまで地域社会をベースとして培われてきた個と社会(公)の両面からの教育のバランスが歪みを生じているのが現状である。一人歩きの民主主義に多くの疑問の手が挙がるようになり、地方分権などの動きが活発化し、地域中心の社会が現実化するに連れ「地域」のあり方を次第に問われることが多くなってきている。しかし、地域が手綱を取れば全てうまくいくとは限らないし、その保証もない。いくら住民に近いとはいえ、従来の行政主体の活動がすぐ変わるわけではなく、地域住民の協力なくしては不可能であるといっても過言ではない。

 まちづくり運動の歴史は明確ではないが、おおよそ60年代の公害や大型宅地開発、幹線道路建設の反対運動から始まったといわれ、80年代では住民参加型のまちづくりがはじまり、将来の都市像を描くようになった。しかし、下から上の突き上げだけではよりよい地域開発は望めないということもかさなり、90年代は都市計画法の改正、NPO法の施行により行政と地域住民との(公を意識した)パートナーシップによるまちづくり運動の流れになりつつある2)。これはバブル経済崩壊と環境問題という大きな障壁にぶつかり、今までの社会に対する反省とこれからの社会のあり方を問うように住民自らが主体的に活動するようになったのも一因とあげられる。それほどまでに「まちづくり」への住民意識は高くなってきているが、現実的な問題としてそれはまだまだ一部でしかない。また、専門的な知識を持つわけではない住民がまちづくりを行うということは非常に難しく、NPOなどとの協力体制の確立とともに地域住民自身が地域のアイデンティティや連帯性の確立、そして実際のまちづくり・都市計画の知識と理論を学ぶ必要がある。

 また、そのように地域を考えるようになってきて、住民も自分たちが望むことをしたいのに出来ないというジレンマを抱えて暮らしている。一昔前ならばその地域の風習と古くから伝えられた伝統に基づいて形成されてきた地域も、急速に変化する時代の中で自己崩壊を起こしている。そういった点からも現代の理論と古来よりの慣習を組み入れながら新たなまちを作っていこう、という住民の意志は非常に大事であり、且つその力をうまく配分する事が求められていると言える。都市を計画する人や運営する人は必ずしもその地域に住み続けるとは限らないし、その計画による責任の行き先はない。もしその人達がいなくなってから計画によって引き起こされた悪影響が出てしまえば、結局はそこに住む住民がその被害に遭う。そのことも大きなジレンマを引き起こし、住民によるまちづくりという大きな力を増大させている。そうしたことを踏まえても住民が参加によるプロセス学習の体系により、住民に自己に対する責任だけでなく、地域社会の一員であり、責任ある存在であるという意識付けが出来れば、まちづくり教育というものが失われた地域性を呼び戻し、新しい形の地域やまちを作り上げていく為に必要であるといっても過言ではない。


(3)まちづくり教育のあり方

 市民の手によるまちづくりは重要だが、まちづくり教育は都市計画と同じく必ずしもやればいい、というものではない。様々な方法論は存在するが、それはまだ実験に近い物もある。一般的にはワークショップのようなまちづくり活動を実際に行いながらまちづくりの教育を行うケースが多く、ときにはデザインゲームを利用してまちづくり教育を行うということもありますが、なによりも「自分達の地域を自分達で考える」という点はどれも共通して主題と置いている「まちづくりの根元的な力」と言える。ワークショップなどの活動については多くの場所で論じられているので詳細は別の文献に委ねるが、このようにまちづくりを支える動きは非常に活発化してきてはいるものの、住民に自分の地域を再考して行動を起こしてもらうにはまだ至っていない。すなわち、まちづくりというものはまだ「参加」の段階といえる。
また、その地域に住む「常民」の参加がまだ十分でない事を考えれば、まだその参加の手法や意識付けの手法もまだこれから考えなければいけない点である。確かにワークショップは優秀なまちづくりの「ツール」としての役割を果たすが、その道具を使いこなすという点から見ても未だ不十分であり、その道具を使う力(すなわち市民参加の力)もまだ十分とは言えない。現在のまちづくりへの参加者は一部の参加の促された人々に限られている事が少なくはなく、なによりも意識化としての教育は都市を専門的に取り扱うこの学部学生に対してでさえ苦労しているのだからその課題は今後解決しなければならない点であるといえるだろう。

 また、実際の都市計画の理論に触れるのは参加した時が始めての人がほとんどで、実際の都市の理論をまちづくりに注ぐ、という形は現実にその場に直面したときに専門家から促されるものでしかない。確かに専門家のノウハウは活かされるべきであるので間違っているとはいえないが、地域住民の参加と行政とのパートナーシップの実現、そして「まちをつくる」ということは地域住民が主体的に行うべき活動であり、しなければならない地域共生の理論である。そして、まちづくりの理論や知識を地域住民に下ろすだけではなく、地域の歴史的展開・伝統を踏まえ地域住民がまちづくりの理論を実践に注ぐ作業を行えるようにする教育こそがまちづくり教育といってよいだろう

 現在の参加の段階は必ずしもゴールではない事を考えると、(段階的な手順は必要だが)意識付けと理論に基づいた総合的なまちづくり教育を行うべき必要があると思う。そのような複合化した教育は未だ存在しえず、私は複合した処理の出来るコンピュータ教育にその可能性を見いだすのである。
1) コンピュータ教育開発センター 監修『コンピュータ教育標準用語事典』アスキー,1989
2) 佐谷和江・須永和久・日置雅晴・山口邦雄『市民のためのまちづくりガイド』学芸出版社,2000
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